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サッカー部のこと

写真左から、平井、加賀、不明1、金(金谷)、目崎、吉宗、不明2(不明が誰か分かれば教えて下さい)

1971年サッカー部

 

2013年サッカー部

 

 

夜更かししながら楽しんだ今年のワールドカップはアルゼンチンの優勝、MESSIやMBOMAなど素晴らしい選手達の世界最高峰のパフォーマンス・死闘の凄さに70歳近いオッサンでも大いに感動しました。

日本も頑張ったけれど世界トップレベルにはまだ少し開きがあるようにも私は感じました。

世界中の何億人もの人が、この素晴らしい“サッカー”というスポーツに魅了され、若者達は「自分もこんな選手になりたい!」と思ったことでしょう!

私がサッカーを始めたのは小学生時代にメキシコオリンピックで日本が銅メダルを獲得したことがきっかけで中学のサッカー部に入部したことを覚えています。そんな少しの憧れが始めるきっかけになったのでしょう。当時の日本サッカーはまだアマチュアの社会人チーム同士のリーグが始まったぐらいでした。
ドイツ人のクラマーという素晴らしい指導者が居て、50年前日本のサッカー界を今のレベルに導いてくれたことを忘れてはならないと思います。
ドイツは日本サッカーにとっては育ての親のような国で、50年前にドイツに本気で戦って勝利できるとは夢にも思えませんでしたが、今年それが現実となったことに改めて日本サッカーの成長を嬉しく思っています。

 

私の学生時代のサッカーで忘れられない2人のドイツ人の言葉です。

【デッドマール・クラマー】

サッカー
それは本当に素晴らしい競技だ。
なぜなら、子供を大人に、大人を紳士に育て上げる競技だから。

クラマーが日本に残した言葉

1、強いチーム同士が戦うリーグ戦創設。
2、コーチ制度の確立。
3、芝生のグラウンドを数多く作り、維持すること。
4、国際試合の経験を数多く積むこと。強豪と対戦すること。
5、高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。

 

【フランツ・ベッケンバウワー】

スポーツは我々の持つ最高のコミュニケーションのひとつだ。
それは宗教や貧富の差を超えて我々を一つにしてくれる。

名言

『強いものが勝つのではない。勝ったものが強いのだ。』

 

■私たち高津高校サッカー部のこと

サッカー部は、体育館裏のクラブ部室の中でも一際「臭くて汚い」部室で、休み時間には用具やボールの手入れをしたりだべって、部室前を女子たちが汚いものを見るように通り過ぎるのを眺めていました。サッカー練習後には上六の南海飯店の餃子を食べに行くのが楽しみでもありました。

毎日授業中には今日はどんな練習メニューにしようかと考えたり、学校から部費を如何にたくさん貰える様にと、活動内容を立派に報告するにはどうしようか思案したりしたことを覚えています。

夏の合宿では高校の教室に寝泊まりでしたが、暑くて眠れず夜中に真っ暗なプールに皆んなで飛び込んで泳いでいたのもスリルがあって面白かったです。

あまり勝った試合の記憶は無く、いつも1回戦で負けていた弱っちぃいサッカー部でしたが、同期や先輩後輩たちと3年ほどを過ごせた事は本当に楽しい思い出です。

皆さんが部活を始めたきっかけや思い出を70歳になろうとしているいま是非思い出してみて投稿してみて下さい。

よろしくお願いいたします。

 

(吉宗秀郎)写真や名言は勝手にネットから拝借してしまいました。すみません

3件のコメント

  1. 吉宗です。
    ワールドカップでは侍ブルーの活躍に感激し、レベルの高いサッカー観て夜更かしの日々です。
    50年ほど前はベッケンバウワーに憧れて、高津の砂のグラウンドで皆んなで夢中で球蹴っていたのが思い出されます。
    当時はドイツやスペインに勝利するなど想像も出来ない時代でしたが、最近の日本人の若い世代が色々なところで頑張っているのを眺めるのも楽しいね!

  2. ワールドカップ決勝戦は、最高レベルのサッカーの魅力が凝縮された一戦でした。何と言ってもメッシとエムバペという2人のスーパースターの存在は大きいけど、アルゼンチンもフランスも、最後まであきらめない気迫は凄かった。吉宗君が言うように、僕らがサッカーを始めた頃に比べたら、個の力も含めチームプレイや戦術面では日本も格段に進化しているので、これから決勝戦でのこの2人に近づくような傑出したプレーヤーが育てば、十分世界のトップレベルで戦えると思う。僕らの眼の黒いうちに、日本代表がワールドカップ決勝戦で戦う景色を見てみたいもんだ!

  3. 当時、守りの要センターバックだった吉宗は頼りになる部長だったが、授業中に練習メニューを考えてくれていたとは知らなかった。改めて感謝感謝(先生方すんません)。
    運動クラブの部室長屋も懐かしい。あの土埃と汗と油の混じったような匂い、確かに臭かった。でもドアを閉めれば無礼講。中で紫煙をくゆらせている先輩もいたっけな(記憶違いならごめんなさい)。まあ記憶通りとしても今となっては時効時効。時効といえば合宿明けの南海飯店での餃子とビールか(これも記憶違いならごめん)。「ハンテン行こか」と言えば、上六の南海飯店で餃子を食べること。猛者はあの大餃子を5人前位は平気で喰っていた。
    あと「ジェイビー」といえば、同じ上六にあったMJBという喫茶店。当時高津生のたまり場だったこの店、ちょっと悪目の連中が(でもホンマモンの不良はいなかった)、煙草と木の匂いのする薄暗い店内で蠢いていた。まじめだった僕はこの店に入るのに少しだけ勇気が要ったものだ(笑)。
    あの時代から50年以上。日本サッカーは飛躍的に強くなり、高津の校風も変わったけど、上六の南海飯店はハイハイタウンの中で今でも健在。またサッカー部OBでハンテン行こか!!

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